読書メモ 職業としての学問

今回はマックス・ウェーバーの「職業としての学問」を読ませていただきました。

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実はプロ倫を最初に読もうとしたのですが、集中力が続かず、挫折。ということで、比較的簡単とされているマックス・ウェーバーの本を読もうかな、と探しました。

 

この本は、1917年にウェーバーが行った講義が元になっています。1917年といえば、第一次世界大戦終結し、ドイツが敗戦国として疲弊していた頃になります。そんな苦しい時代の若者に対してウェーバーの行った講義というのは、ひょっとすると感染症が蔓延し、人々が疲弊している現代にも、何かつながるものがあるかもしれません。

 

講義が元になっているので、読んでみると分かりますが、具体例が入っていて丁寧な一方で、議論が行ったり来たりして、若干分かりにくいところもありますし、内容も多岐にわたっています。

さて、これは読書メモなので、中身の要約をしてもどうしようもないので、(そもそもそんなものは記したところで忘れてしまって意味がないので)面白いなと思った断片を紹介します。

 

まず、ウェーバーは、学問に価値があることは、全ての学問の前提である、としています。

 科学に関する知識があれば、技術的な目的ー生活を便利にするとかの目的ーを達成できるから、科学的法則は知る価値があるというだけではありません。むしろ、学問を仕事とする人は、学問自体のためにそれを知る価値があると考えるのです。
 しかし、この前提を論証することも全くできません。(中略)それは不問に付されたのです。(p.59)

その上で、ウェーバーは学問をすることは、「誠実」になることであると主張します。

 私たちは、価値の問題を追究すればするほど、明確な目的がわからなくなる。と同時に、ここで初めて私たちは、学問が明噺さに仕えるために成し遂げる最後の貢献は何か、つまり学問の限界とは何かという点にたどり着くのです。
 私たち教員はみなさんに以下のように言うことができるし、また言わなければなりません。すなわち、ある究極の世界観から見て根本的な立場からーその立場は一種類かもしれないし、何種類かあるかもしれませんが、しかし決してまったく別の立場ではない、そういう立場から、ある実践的な態度が、つまり「誠実さ」が導き出されるのだ、ということです。(p.86-87)

そして、その姿勢を学ぶことこそが、学問を学ぶ意味ではないか、と学生に問いかけるのです。

 学問は少なくともそういうあなたたちに貢献できます。哲学科や、その他の学科でも、本質的に哲学的で原理的な叙述をするときは、こういう貢献を目指しています。そして、私たち教員がその任務をわきまえているなら、もちろんそれがここでは前提にされざるを得ませんが、私たちは学生のみなさんに対して、自分自身の行動の意味について責任を負えと言うことができるし、少なくともみなさんが責任を負える人間になることを助けることができるのです。
 そんなことは自分の純粋に個人的な生き方にとっては非常につまらないことだ、とは私には思えません。もしある教員が学生にこういう貢献ができたなら、その教員は倫理的な力に仕えているのであり、明断さと責任感を学生に作り出すという義務を果たしているのだと私は言いたい。(p.88)

最後にウェーバーは、戦後の苦しい立場にあり、宗教的なものに縋り付こうとする若者に対し、以下のように警鐘を鳴らします。

 今の若者は主知主義を憎む立場をとっている、しかし、たいていは、とっていると自惚れているだけです。
 だから彼らに対しては、次の警句が当てはまるでしょう。「考えてみろ。悪魔は年をとっている。だから悪魔を理解したいなら、おまえも年をとれ」。
 この言葉が意味するのは単に年齢のことではありませんよ。そうではなくて、もし主知主義という悪魔を前にして、悪魔を自分の意のままに動かしたいと思ったら、今の若者がそうしがちであるように、その悪魔から逃げることは許されない、むしろ悪魔の力と限界を知るためには、悪魔のやり方を一度とことん最後まで見抜いておかなければならないという意味なのです。(p.90)

みなさんにできることはただ 一つ、この決定的な事実を知ることです。つまり、わが国の、最も若い世代の非常に多くが憧れている予言者などというものは、教室にはいない、また今後、予言者が、重い資意味を持って若者の前に生き生きと立ち現れることも絶対ないということです。(p.93)

 ぼくもそうですが、人間が何か苦しい立場にいるとき、何かを信ずることによって、その逆風を乗り切ろうとします。それは、超自然的なものを信仰することであったり、何かを敵対視することであったり、様々です。それはいつの世も変わらず、現代社会にも通ずるもの、ひいてはコロナ問題に直面する我々にも当てはまるのではないでしょうか。何か縋るように「似非科学」にたどり着いてしまったり、ネット上で特定の人を誹謗中傷をしてみたり、それらは、決して救いにはなりません。

学問を学ぶことの意味。これから大学で学ぶぼくにとって、大切なものであると同時に、ずっと向き合っていかなければならないこと。そんな貴重な断片に触れた一冊でした。